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火土水(ヒトミ)のハタラキ

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火土水のお土が曇れば、結びたる火水も曇るぞ。

日月地の月が曇れば、結びたる日地も曇るび。

神幽顕の幽が曇れば、結びたる神顕も曇るぞ。

霊力体のお力が曇れば、結びたる霊体も曇るぞ。

口心行の心が曇れば、結びたる口行も曇るのぞ。

解かりたでござろうが。

心、曇りて居れば組み結びた花々は、ケガレ負いたる仇花となりてしもうのぞ。

可哀想でござろうが。早う、心、清め清まりて下されよ。

「火水伝文」本文p59


上の文章を一覧で示すと、以下のようになります。


火(口日神霊一)
土(心月幽力二)
水(行地顕体三)


■火(口、日、神、霊、一)のハタラキ
下から支える裏のハタラキ、(▽、陰の構え)、万象万物【正化】のハタラキ、至誠大愛、父の御役

■土(心、月、幽、力、二)のハタラキ
結ぶ土の御ハタラキ、( ・ 、真中の構え)、万象万物【産む】ハタラキ

■水(行、地、顕、体、三)のハタラキ
上から現す表のハタラキ、(△、陽の構え)、万象万物【成化】のハタラキ、至慈至順、母の御役


「心」は、万象万物【産む】ハタラキ をします。

つまり、すべてを産み出す力を持っています。

その絶大な力を持つ「心」が曇っていれば、産み出されたものはケガレを負った仇花となります。

末は散りゆく運命です。



まず、第一に大事なのは「心」を澄み切らせることです。

「心」を澄み切らせるのは「感謝」です。

「心」が澄み切っていれば、そこから産み出されるものは「真コトの花」

万古末代、散ることのない真コトの花一輪(一厘)を咲かせましょう。




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火の御ハタラキ

「火水伝文」p62より

火の御ハタラキ申すは、一(ヒ)なるぞ。神なるぞ。霊なるぞ。日なるぞ。口なるぞ。
火の位に座されます御力徳におわします。
万象万物【正化】さすご苦労の御ハタラキであるぞ。
こは父の御役じゃ。至誠大愛の御役にござるよ。

下から上へ燃え立ち昇るごとく、ご自身は下の下の下に下りて、見えぬ陰の存在と成りて、何かのことを背負いご守護致し生かし活かして、背負われてるものが得心致して、不平不満も無く安心致して生きある様、下から上までスクリとマコトをタテワケ立て、ご守護致すこの世の基の御ハタラキを申すのであるぞ。
マコトタテワケルご苦労がその基じゃ申して居るのぞ。
万象万物【正化】の基なれば、火の一旦発せらるれば、正味の形に結ぶまで、響き鳴り鳴りて居るのぞ。

そはマコト少なければ、末はメグリに鳴り成り結ぶもあるいうことにござるぞ。こは決して忘れんで下されよ。

心曇りて、火、傾けばマコト少のう成るのぞ。
火、ヨコに成るればマコトタテワケ適わず、汚泥混濁の世と成るは解かるであろうがな。

それ由、火はスクリと真すぐに立てねばならぬのじゃ。
情けの裏にてマコトを支え、花の裏にて散らぬマコトを咲かす響きが火の音色じゃ。

【口・心・行】にありては【口】が火のハタラキの御座(ミクラ)なるを知らせ置くぞ。
言霊の響き大事に慎み深く使うが善いぞ。

魔コトの思いを持ちて、神の御前で申せぬ様な【行】いを図るが如きなさり様を、逆位の構えの『魔釣り』申すのぞ。

そは、真コトの御座なる【口】の座にウソを据えるが事にてあるぞ。そは正位に座(マ)すは適わぬ魔コトを、正位の御座に据え置きて、そをマ釣りの基に成すをいうのぞ。

【口】の座申すは、真釣りを支える御ハタラキの御座にござろうが。
【火の御ハタラキ】の御座にござるぞ。
この御座に座るもの、マコト無きは許されぬ由、マコト無くありて座りたるもの、先々可哀想であるぞ。

何れ形を変えメグル情けと鳴り鳴り響きて、必ず【口】に結び現し、外した真釣りを取り戻さしめる、至誠の極みの御座にござるからじゃ。

人民様は、生きある何時かの時々に、自ら至誠の口の座に、数々の不誠を据え置きたを忘れて居られるが由、自らがもろうメグリの真姿に気付けぬのじゃ。
こは元つ真釣りの、万古不易の神法(カムノリ)なるを知りて下されよ。

火を見やれよ。火は総てを焼き払い、マコトの響きのみをタテワケ残す型示しにてあるぞ。
万象万物正化の響きをタテワケご守護致すが大事な御ハタラキじゃ。

【口】に出した事どもは違えず【行】いて下されよ。
【口】を慎みて下され言うはこの事あるが由じゃ。
【口】は火傷の元ぐらいに思いて慎み行くが善かろうぞ。

 マコトをタテワケ支えるハタラキを護持致すは、《身欲》に囚われぬ強き心を持ちて無くれば、適わぬ事と知り置かれよ。・・・

 口の座にまします火の御ハタラキ申すは、真釣りを支える強きご苦労の御役なれば、ウソと言う事は申されず。戯言や弱音を吐き居れば、キッチリそれだけのメグリをお渡し致すのぞ。真釣りを支える強きマコトの言魂以外、座すは許さぬ神座ざ申した事、今一度ハラにお入れなされよ。

汝等が戯言あれ弱音あれ、吐くは汝等の勝手なれど、そがために巻き込まれ、作らいでもよいメグリを他人に作らせ参るは、マコト心卑しき業なれば、少しはマコトを出されて、ご自分の事より、他人を支える火の御ハタラキを、口の座に座さして下されよ。

 真釣りに仇なす不調和を、バラ蒔く者と成るよりは、調和をふり蒔く者と成りて下されよ。土台が狂うてござるぞよ。


人の口から出る言葉は、単なる「音」ではなく、「言霊」としての威力を持ちます。
 この抜粋部分は、言葉の重要性とともに、言葉の怖さというものを感じさせる内容です。

一度口にしたら、本人は忘れていても「火のハタラキ」により、それが実現するように全てが動き出す、というぐらいに考えていた方が良いと思います。

すべてにおいて、「言行一致」が基本です。

つまり、滅多なことは口にしない。
口に出したら、必ずやる。口と行いが一致していないと、新たなメグリを作ることになります。

“【口】は火傷の元ぐらいに思いて慎み行くが善かろうぞ。”

・・・このぐらいの心構えが必要だということです。
これは、口に出す言葉について述べていますが、ブログ等に書き綴った内容に責任を持つことも意味します。だから滅多なことは書けないということです。


それだけ言葉は慎重に選ぶ必要があるということです。



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勧善懲悪は、もう古い(4)「悪を抱き参らせる」

「勧善懲悪は、もう古い」シリーズ最終回です。


自分の目に映る「悪」・・・それはつまり、認める認めないにかかわらず、

「自分の中にも確かに存在する性質」であり、常日頃、自分が何を考えているか、

何に意識をフォーカスしているかを教えてくれる存在です。

だから、「悪」が目の前に現れたら、それと同じものが自らの内にもあることを素直に「認め」、

そして「許し」、斬り捨てるのではなく「お詫び」と「感謝」で「抱き参らせる」のです。

「ああ、自分にもこんな性質があったのだな。わざわざ嫌なお役を引き受けてくださり、ごめんなさい。そして、ありがとう」と。

「鏡割りの法則」による「鏡の増殖」を止めるには、逃げずに鏡と向き合うことです。

鏡を憎み、否定し、責め、切り捨てようとしている限り、鏡は目の前に現れ続けます。

目の前に現れたものは「確かに自分の鏡である」と、素直に認め、受け止めることが第一歩です。

・・・と、頭では理解していても、いざ当事者となると、そう簡単にはいかないのは百も承知です。


悪を斬り捨てる・・・心情的には、その方が簡単です。見た目にもカッコイイのかも知れません。

それでもなお、強い意志で、「悪を抱き参らせる」のです。

悪を斬り捨てるより、抱き参らせる方が、はるかに難しいのです。

だから、「勧善懲悪」のドラマを続けている限り、悪の完全排除は、「NO」です。

ただし、「神仕組み」の観点からすると、悪を裁かず、抱き参らせることにより、悪の完全排除は可能、

つまり、「YES」となります。

「善だ悪だ」という「ものの見方」を改めることにより、これまで「悪」として認識していたものがなくなる、

即ち「善を善と認識せず、悪を悪と認識しない」、言い換えれば「善悪に分けて見るものの見方」を

しなくなることにより、認識の上では「悪」もなくなり、同時に「善」もなくなることになります。


「悪」という概念が消えれば、その対立概念である「善」も消えてしまうのです。


心の中に自分で設けた「善悪の境界線」を「掃除する」ということです。

「戦争」という言葉がなくなれば、「平和」という言葉もなくなるのです。

ここで当然のごとく「善悪の概念を掃除するということは、誰かが誰かを自由に殺したり、盗んだりするようになり、世の中が乱れるのでは?」という質問が出るかも知れません。

もっともな質問ですが、こういう仮定の質問は、考え出すとキリがありません。

そのような質問には「あなたは、それが本心からしたいのですか?」と返しておきます。

この場合、「欲心から」ではなく、「本心から」というのがカギです。

「本心」は「本神」に通じます。あなたの「内なる神」です。

「欲心」からではなく、「本心」から、本当に「他人に危害を加えたい」と思うでしょうか。

そんなことはありません。

「他人との不調和」より、「他人との調和」を望むのが本心(本神)です。

そして「本心100%」の状態で動くとき、「本心=本神」が動いているということになります。

それはつまり「誠の神がかり」であり、「神人合一」ということになります。

そして、まもなく、善悪を超えた世(ミロクの世)が来るというのが、「神仕組み」です。

「来る」というより、「住人になる」という表現の方が的確かも知れません。

私達の方が、その波動(響き)に合わせるのです。

それまでの間、「ヒトとケモノ」は混在しています。

これから先、ますます「ケガレ逆巻く世」になります。

それは人類の総決算の時期だからです。

ケモノは「共食い、共倒れ」で自滅です。そうやって一掃される仕組みです。

ケモノ同士の共食いに巻き込まれないよう、よくよく注意が必要です。


吹き荒れる嵐の中で、ロウソクの火を消さないよう細心の注意を払うように、

どんな時でも、どんな状況になろうとも、どこにいても、常に冷静に、

みずからの「本心」をしっかりと見つめつつ、歩んでいくことが大事です。


さて、それではここで、再度確認します。

「悪」は完全排除されるのでしょうか。

悪を斬り捨てる「勧善懲悪」のドラマを続けている限り、その答えは「NO」です。

ただし、「神仕組み」の観点からすれば、この答えは「YES」ということになります。

「神仕組み」により、調和を乱す悪(ケモノ)は共食いによる自滅で一掃されてしまいます。

では、これから先、「悪(と認識していること)」が目の前に現れたら、どうするか。

もうお分かりですね。

その悪を「認め」、「許し」、そして「お詫び」と「感謝」で「抱き参らせる」ことです。

「私に鏡を見せてくれるために、こんな大変なお役目を引き受けてくださったのだ」と受け止め、

心からの「お詫び」と感謝」を捧げ、さらに相手を「慈愛」で包み込みます。

頭では理解しても、実際には、かなり難しいかも知れません。

しかし、ここで「悪を潰す」方向に意識がいってしまうと、また元の「勧善懲悪」のドラマが繰り返されるだけなのだということを、頭の片隅にでも置いていただければ幸いです。

「外道の善人」が悪を成敗する「勧善懲悪」のドラマは、もう古いのです。


少し長くなりましたが「いま、この時節」に、どうしても伝えておきたいことなので、書かせていただきました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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勧善懲悪は、もう古い(3)「外道の善人」

前回の記事で、「鏡割りの法則」について触れました。

では、正義感や使命感で「悪をぶった切る」というのは、どういうことか。

それは「鏡を割り続ける」ということです。鏡を割り続ければ、鏡は増え続けます。

それはつまり、終わりの無い「勧善懲悪」のドラマを延々と続けることになります。


「聖書」では「他人を裁くな」と諭しています。

「日月神示」や「火水伝文」では、「悪を抱き参らせよ」と諭しています。

今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、
まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。
これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから
暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様
に気を付けて下されよ。(火水伝文p84)


ケガレ逆巻く今の世では、あちこちで「悪と悪の共食い」が起きています。

しかし、共食いをしている本人達は、それぞれ「自分は善で、相手が悪だ。だから、相手を切り捨てるのは正しい」と思ってやっています。

「本当は自分の方が悪い」と思ってやっている場合もありますが、やり出したら引っ込みが付かないんですかね(笑)

悪を裁き、ぶった切り、成敗する「外道の善人」・・・その実は、どっちもどっち。お互い様なのです。

他人の争いを、面白がって眺めている見物人も、「外道の善人」と同類とはいえないでしょうか。

「あっちは、ああ言った」「こっちは、こう切り返した」って・・・

そんなものを面白がる精神性こそが、いまの時代の「腐れきった日本人」を表しているとは言えないでしょうか。

そうではなくて、「他人の争いを面白がっている自分」を、恥ずかしく思う精神性、悲しく思う精神性こそが、本来のヒノモトの民が持つべき精神性ではないでしょうか。

他人の争いを見て、悲しく思う心・・・これは、激しい兄弟喧嘩を続ける子供達を見て、悲しく思う親心に通じませんか?

ハッと我に返り、「ああ、自分は、他人の争いを面白がっていた」と気付けば、自然と、そんな自分を恥ずかしく思う気持ちがわいてくるのではないですか?

そんなことにすら気付かなくなってしまった自分は、「内なる神」に対して、とても恥ずかしい。

そう思いませんか? え? 思わない? もっとドンドンやれって? 

あなた・・・ホントに「ヒノモトの民」ですか?

「世界の親」としての自覚、あります?(笑)



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勧善懲悪は、もう古い(2)「鏡割りの法則」

誰かを憎んだり、あるいは殺意すら抱くようなことがあったとして、

じゃあ、実際に相手に危害を加えるのか。

たいていの人は「そんなことはしたくない、してはいけない、自分は嫌だ」と思うから、

心の中にある「闇」を形にするのを思いとどまる。

その時、「思いとどまらせる」のも自分であり、「こらえ切れずに形に表す」のも自分です。

ここが、いわゆる「ヒトとケモノの分かれ目」です。

「どちらを形にするか」を選ぶのは自分です。

ヒトとケモノ・・・どちらの響きを鳴り成らせるか。

この時、自らを制御する「自制心」の有無が、明暗を分けることになります。

自らを制御できなければ、憎しみのあまり相手に危害を加えてしまうことになります。

ここで注意しておきたいのは、「内なる神の目」から見れば、「心の中で誰かを殺す」のも、

「肉体の身で誰かを殺す」のも、本質的には同じことだということです。


例えば誰かを「憎い」と思い、さらには「殺したい」とまで思うようなことがあったとしても、

そのことを思い続け、思いつめ、ついには爆発して形として表に現すか(肉体で実行に移すか)、

それとも、それを「思いとどまる」かは、自分次第です。

その「思い」を、「思い」のままで「とどめておく」、つまり、その「思い」を、「とどまる(とどめる)」のです。

そして、これ以上、そのことに「思い(意識)」が向かうのを「とどまらせる」のです。

言うは易く、行うは難し。「思い」が強ければ強いほど、それを上回る自制心が必要です。



さて、このように「善と悪」いずれの性質も併せ持つのが人間です。

「善と悪」を、「光と闇」に置き換えてもいいでしょう。

私は、「自分の中にも存在する性質」を、デフォルメ(誇張・強調)して表現しているのが「他人」だと考えています。

そうであるならば、「他人の行い」に現れた「悪」とは何でしょうか。

他人の中に見える「悪」とは、「もしかしたら、自分が表現していたかも知れない性質」であり、

それは当然、「自分の中にも存在している」のではないでしょうか。

お互いに、それぞれの「内にあるもの」を誇張したり強調したり、あるいは特徴を弱めたりして表現し、

人と人とが「鏡合わせ」でお互いのことを認識し合ってきたのが、「人間の営み」ではないでしょうか。

鏡と鏡を引き合わせるのは、「類は友を呼ぶ」の言葉通り、同じ波長の者が出逢うように「引き寄せの法則」が作動します。

ここまで来ると、「勧善懲悪」がどういうことか、もう、おわかりになるのではないかと思います。

「勧善懲悪」のドラマは、いつまでやっても、終わりが無いのです。

厳密に言えば「勧善懲悪」を突き詰めていくと、最後に残るのは「自分一人」ということになります。

「目の前に見える悪」を裁き、憎み、責め、潰し、否定し、殺そう(排除しよう)とするのは、つまり、

「自分の中の一部の性質を誇張した存在」を殺すということになります。

それが何を意味するか。もうお分かりでしょう。

そうです。自分で自分を殺すことになるのです。

そして、自分の前に現れるのは、「自らの鏡」であり、その「鏡」を排除したとしても、

それは一時的なものであり、「自分の中にある性質そのもの」は変わらないので、

「鏡」はまた形を変えて自分の前に現れ続けます。

鏡を割っても割っても、割れば割るほど、後から後から、鏡が現れてきて、

ついには、自分の周りは鏡だらけになってしまいます。

私は、この仕組みを「鏡割りの法則」と勝手に名づけています。




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勧善懲悪は、もう古い(その1)「神と悪魔」

悪を裁き、悪を潰し、悪を成敗し、悪を排除する・・・いわゆる「勧善懲悪」のドラマ。

人類始まって以来、歴史の中で何度も何度も繰り返し、「悪を潰せ」とばかり、

「勧善懲悪」のドラマが演じられてきました。

では、それだけ長い長い歴史を積み重ねて来て、悪は根絶やしになったでしょうか。

答えは「NO」です。

目に見える部分では、いろんなシステムが改善され、文明は発達を遂げてきました。

それは人類の知恵と努力の賜物であるといっていいでしょう。

しかし、人の心の中から、「悪」が完全排除された試しは、一度たりとて無いのです。

では、これから先、もう少しだけ力を合わせて心を一つにして頑張れば、「悪」は完全排除されるのでしょうか。


答えは「NO」です。ただし、「神仕組み」の観点からすれば、この答えは「YES」です。


それはどういう意味か。順を追って説明してみます。
(この記事は、一気に書いてみたら長くなってしまったので、4回に分けて掲載します)


「悪」というものが人の心に存在する限り、つまり、内面に在る限り、それは形となって表に現れます。

一方、「善」もまた、人の心の奥底に存在しています。

つまり内面に存在しているので、それは形となって表に現れます。

つまり人は、「善と悪、いずれも形として表に現すことができる存在」であるということが言えます。

「善と悪、いずれも形にすることができる」ということは、言い換えれば「神と悪魔」のいずれの働きも表に現すことができるということになります。

「神と悪魔」のいずれの働きも表に現すことができるということは、

逆に言えば「神と悪魔の両方の性質を内包している」ということになります。

「完全な善人」や「完全な悪人」はいません。

どんな善人にも悪の心があり、どんな悪人にも善の心があります。

つまり「善と悪、どちらか一方だけが100%ではない」のです。

ただし、「善と悪、どちらの性質を形として表に現すか」を決めることはできます。

ここが大事なところです。

これを自分に置き換えて考えると、「何を形として表に現すか」を決めるのは、他の誰でもない「自分」です。

形にした後で、「実は止むを得ない理由があって」とか、「本当はやりたくなかったけど」という言葉が出てくる場合があります。

他人からのコントロールが入ると、この選択に「葛藤」が生じてきます。

本当にやりたくなければ、やらなければいいのです。言いたくなければ、言わなければいいのです。

「言いたくないけど」、でも「言う」のは、「言うことを選択した」ということの言い訳です。

あるいは「言いたくて言いたくて仕方ない」という本心を隠すために、「言いたくないけど」という前置きを使う場合もあります。

ブログなら、「書きたくないけど」・・・って、本当に書きたくなければ書かなければいいのです。

でも、書いているということは、「書きたくない理由」を上回る強い理由(または動機)により、
「書くことを選択した」ということです。

つまり「書きたい」ということです。

最終的に、何を形にするか(何を形にしないか)を選択し、決定し、行動する(行動しない)のは、自分です。

そして、形にしたならば、もはや誰のせいにもできません。

形にした責任は自分にあります。責任転嫁はできないのです。

・・・本日はここまで。この続きは次回の記事にて。




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オオカミからの伝言(裁く心を捨てなされ)

最近のランキング上位のブログは、しょーもない記事ばかり。

読んでいて気持ちが悪くなる。
(機嫌も悪くなる。たまに反吐が出そうになるので、あまり読まないようにしている)

ブロガーの皆さんには、読み手の気持ちを引き締めるような、元気が出るような記事を書いて欲しいものである。

一部のブログは、常に良質な記事を掲載しているようですが・・・

一部のブロガーの皆さんには、今後とも引き続き「良質な記事」を期待します。


という訳で・・・

なんだそりゃ。そんなタイトルで恥ずかしくねぇのか?!

もうちっと、マシな記事は書けねえのか!!


その記事を読んで、読み手の精神性が高まるのか?何か重要な気づきがあるのか?

そういう気持ちを込めて、以下の記事を再掲します(自戒も込めてます)。

偉そうに、ランキング上位ブロガーに苦言を呈するジンガを批判したい方は、ご自由にどうぞ。

私は降りかかる火の粉でヤケドするほどヤワじゃないんで。




オオカミからの伝言を伝えます。(「オオカミ≠狼」「オオカミ=大神」)

これからタテカエ最後まで、悪き響き益々日々高まりて、
小さきイサカイから大きイサカイのカタチをとりて、
様々鳴るメグリ汝等のもとに訪れ来る由、
取り違えなさりて危うき事に陥らぬ様、
危うき心の持ち様をご注意致し置くぞ。

汝が支えある者なれば、マコト貫き通すが汝の努めにてござるが、
マコトを通す申すは、他人を責めむ事にてはあらざるぞ。
汝が支えられある者にてあればなおの事じゃ。
他人を落としめ、汝ご自身も悪に染まるからじゃ。
好い加減に卒業なさるが善いぞ。

善も悪も大神の御子なるは、お伝え致したであろうがな。
善にも悪にも等しく機会を与うるが、神のやり方にござるぞ。
自らが三真釣る行にて、他人を喜ばす響きと鳴り成り鳴られて下されよ。

そが前に言の葉持ちて他人のマコト無きをなじりて居りては、
汝ご自身が辛く醜く、鳴り鳴りてしもうだけぞ。

何時までもハラに《我善し》詰めて居らねで、
三真釣り持ち行き喜ぶ響きと変え行きて下されよ。

三真釣る嬉しの響きで、他人を喜ばして差し上ぐるが善いぞ。
それでも《我善し》で汝が他人を裁く申すのなれば、
この方におイノチ差し出されてなさるが善いぞ。

なれど、汝が差し出せしおイノチ、元々汝のものにて無きは存知居ろうな。
真釣りてあれば裁きも無く。
真釣りて無くればマコト無き由、裁くは適わぬ事にてあろうがな。

マコトそのもので無き者、いかで他人を裁く申すのぞ。
神無き振る舞いにてあるが解からぬか。

汝等他人を裁く思いによりて
自ら神より遠く離れ居るを知らんのじゃ。

そがザマにありて、我一人清しなぞ思い居りては、
この方ご守護しやりたくあるも、側にも寄れん程の、
醜くき臭き響き鳴りて居る由、どうする事も出来はせんぞ。

裁く心を捨てなされ。
そは神の一番嫌う事にてあるのぞ。
今今は、神から離れるが一等危ういから申して居るのじゃ。

汝のマコトは他人にマコトを通さする事にてはござらぬぞ。
汝がマコトを貫き通す事にてあるよ。一緒にしてはならぬ事ぞ。

汝の周りの不調和、不都合申すものは、何時の時か、
汝自らが外した真釣りのお知らせじゃ、くどう申し置き居ろうが。

(中略)

汝等お一人お一人が、他人のマコトにちょっかいを出さずとも、
全人類お一人も余す事無くピタリピタリと、
自らに外した真釣りを取り戻す【メグリ】と鳴りて居るのであるから、
不公平ざ等と悪の教えに何時までも囚われて居らねで、
他人の事はこの方に任し置かれよ。

他人を責めねで和するハタラキあるではないか。
最期の最後に至りて迄、醜き心育むで無いぞ。


「火水伝文」p245~247


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ブログの紹介
真の日本とは何か。それは武士道でも仏教でも儒教でもなく、そして神道でもない。 それらを遥かに超える大昔、太古の神話の時代の日本。 「日の元」「火の元」「日の元つ国」「神気出ずる国」 「世界の雛型」「世界の親」・・・それが本来の日本。一人でも多くの日本人が真コトの「神響き(カムヒビキ)」を鳴り成らせることで、最後には日本人の意識が「100匹目の猿現象」でガラリと変わり、「真の日本」が現れる。 日本が変われば世界が変わる。 日本が変わらなければ世界も変わらない。 ユダヤの民は「立て替え」の御役。スメラの民は「立て直し」の御役。ユダヤの民は、これまでキッチリと御役を果たしてきた。これからが本当の日本の出番となる。
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JINGA

Author:JINGA
カバラ誕生数1、姓名数3(または4)
九星は「七赤金星」
宿曜星は「翼宿」
Kin39:青い宇宙の嵐

★好きなもの色々
日の出、日の入り、富士山、雷、稲妻、入道雲、台風、荒波、夜明け前の時間(ミッドナイトブルーの時間)、一人旅、夏、海、海水浴、月夜の海、山のてっぺん、激流、静かな湖、滝、虎、馬、ワシ、ウルトラセブン、ゴジラ、かき氷、チョコレートパフェ、きなこ餅、トコロテン、アジのみりん干し、梅酒、天空の城ラピュタ、坂本竜馬、織田信長、勝海舟、スサノオノミコト、占い色々、人混みの中、コーヒー、キャンプ、群青色、焚き火の炎、水の中から見た空、虹、長い一本道、喫茶店、一人で過ごす時間、神社参詣

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