「善悪」の概念に代表される『二元的なものの見方』を持つ者は、何かあると「アレは×、コレは○」と、すぐに何でも「○×」の判断をしてしまいます。
「世に現れているものはすべて、神が許しているから存在する」ということは、現世的に見た善悪も含めたすべてを形にするのを神が許しているということです。
逆に言えば、「絶対に、その存在さえ許されないもの」は、そもそも初めから、この世に存在していません。
何一つ、神の許しなくして存在するものはありません。
「目に見える形」を「○×」で判断するということは、「神が許して形にしているもの」を人間の短慮で「裁く」ということです。
それはつまり、「神を裁く」ということになります。
『何も裁かない心』『すべてを一つに見るものの見方』『すべてを許す心』は、即ち『神ごころ』です。
いくら知識を詰め込んでも、『神ごころ』にならなければ意味がないのです。
神は、人間に対して、決して「絶対にできないこと」は要求しません。
ということは、誰でも『神ごころ』になれるということです。
何か(誰か)に対して「裁く心」が生まれてくるということは、自分が心の中に「二元的なもの見方」を持っているということを意味します。
それは即ち、「神を裁く」ことをも意味します。
どんなにスピリチュアルなテクニック(ヒーリングとか)を身につけても
どんなにサイキック能力が高くても
どんなに凄い霊能力があろうとも
どんなに知識があろうとも
「心の掃除」をしなければ、何にもなりません。
『神ごころ』にならなければ、何の意味もありません。
「枝葉」の部分ばかり太らせていては、肝心の「根っこ」が育ちません。
本末転倒です。
もう一度繰り返します。
『何も裁かない心』『すべてを一つに見るものの見方』『すべてを許す心』が、即ち『神ごころ』です。
今までのモノサシ(価値観、基準)を持ったままでは、『神ごころ』にはなれません。
モノサシを取り替えなければ、今までと同じように見えるだけです。
この、「モノサシを取り替える」ということが、「心の掃除」です。
モヤッとしたものが一つもなくなるまで
一点の曇りもなくなるまで
神ごころになるまで
「心の掃除」は続きます。
こうやって言葉にするのは簡単ですが、とても厳しい道です。
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